いつも読書とシネマ

読んだ本と観た映画の備忘録のようなもの

「四つの質問」で作品を分析する。


「おもしろかった」で終わらない感想が語れるようになる。

帯の文句でぐっと心をつかまれた。この本も前に読んだ「本の読み方」に引き続き、僕の、自分自身の今の本の読み方を見つめ直すきっかけとなる本となった。一冊の本を読み終えた後に「おもしろかった」以外の感想が語れるようになりたいと思った。

この本の中で著者の平野啓一郎さんが述べていたのは、本の感想を語る際の着眼点である。平野さんは動物行動学者のニコ・ティンバーゲンが提唱した「四つの質問」(①メカニズム②発達③機能④進化:生物の行動や特徴を分析し、理解するための枠組み)は読んだ本の感想を書く時にとても有効な着眼点であり、そして、この着眼点は映画や他の芸術作品を鑑賞する際にも有効であると述べていた。

僕もこれから読んだ本の感想を語る際には、この4つの視点からアプローチして「おもしろかった」以外の感想を語れるようになりたい。


●作品データ
・タイトル:「小説の読み方」
・著者:平野啓一郎
・発行年:2022年
・発行所:PHP研究所


●抜書き
 色々と考えた結果、インターネットで本の感想を書くことが一般化しつつあった当時、その際の着眼点と、その具体例という構成であれば、まとまった意見を書くことができそうだと思い至り、本書の執筆を応諾した。

 冒頭で、私は、動物行動学者のティンバーゲンによる「四つの質問」をしている。この分野の専門家が読めば、こじつけのような話にも見えようが、私は今でも、小説を読み、書評の類を書かねばならない時には、概ねこの四点を気に懸けており、また、芥川賞のような文学賞の選考の場でも、これらを踏まえた評価に努めている。
 これは、文学に限らず、映画にも美術にも通用する問いであり、何かを鑑賞したあと、人とそれについて話をしたり、自分で感想を書いたりする際には有効な着眼点となるだろう。

 私たちは、仕方なく、どんな情報とも、どんな言葉とも、忙しなく、広く浅いつきあいをするようになって、ふと我に返ると、自分は果たして、本当に、以前よりも、世間や人間に対する理解が深くなっているのだろうかと、不安を感じるようになっている。
 そういう時代に、小説は、まさしく「小さく説く」のである。
 この広大無辺で、複雑極まりない世の中を、そして、そこに生きる人間の心の奥底を、誰の手のひらにでも収まるほどのコンパクトなサイズに圧縮して、濃密な時間とともに体験させてくれる。それが小説だ。

 鳥の鳴き声に見られる文法構造から、人間の言語の起源を探るというユニークな研究をしている岡ノ谷一夫さんは、著書『小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波新書)の中で、ノーベル医学生理学賞を受賞したニコラス・ティンバーゲンが、動物行動学の基本として挙げた「四つの質問」なるものを紹介している。
 その四つとは、動物の行動の、
 ①メカニズム
 ②発達
 ③機能
 ④進化
 に関するものだ。

 ①の「メカニズム」では、たとえば、「小鳥が鳴いている」時に、その小鳥の脳神経系や内分泌系などが、どんな仕組みで働いて、その「鳴く」という行動が可能になっているのかを考えることがテーマとなる。
 ②の「発達」では、卵からかえった鳥が、雛から成鳥になる過程で、どうやって歌を歌うことを学習し、どんな形でそれが表れてくるのかが研究されることになる。
 この①と②とは、どちらも「歌を歌う」という行動が直接引き起こされる要因(「至近要因」と呼ばれる)を考える学問であり、ジャンルとして近いものだ。
 それに対して、③の「機能」では、「歌を歌う」という行動が、その鳥にとってどういう意味を持っているか、④の「進化」は、その鳥が、そんなふうな「歌を歌う」ようになったのは、どういった淘汰の過程を経たからなのかを考えることとなる。
 この③と④とで研究するのは、なぜ、その鳥は「歌を歌う」のかという「究極要因」だ。

 小説はもちろん、読んで、何かを感じ取ることが一番だ。しかし、笑いまくった、悲しかった、という感想以上のことを誰かと語り合うためには、考える手立てを知っておくことが重要だ。

 小説の「メカニズム」について考えるというのは、多分、一番マニアックな読み方だろう。書き手寄りの読み方、と言ってもいいかもしれない。小説とは、舞台設定、登場人物の人数、配置と出入り、プロットの展開、文体、……などが複雑に絡み合って出来上がったものである。
 作者は、それらの要素を様々に駆使しながら、読者にあるひとつの世界を提供しようとする。どうしてこの小説は、こんなに面白いんだろう?どうしてこの小説は、こんなにわけが分かんないのだろう?ヒトや動物の行動を、体の中の機能を分析することによって、なるほどと理解できるように、小説も、動かしている仕組みについて考え、理解することで、これまでとはまったく違ったふうに見えてくることだろう。

 庭を駆け回る犬を見て、愛らしいと感じる。しかし、ロボット犬と違って、どうして生きている犬はあんな精密な動きができるのかを知ると、これまでとはまた違った感動を覚える。「メカニズム」を知る面白さというのは、そういうことだ。

「発達」というのは、その作家の人生の中で、どういうタイミングでその作品が出てきたのかということを考えてみることである。初期のものか、晩年に書かれたものかによって、同じテーマを扱っていても、掘り下げ方や切り口は当然のことながら違ってくる。

「進化」というのは、社会の歴史、文学の歴史の中で、その小説がどんな位置づけにあるかを考えてみることだ。どの小説も社会の影響を受け、その時代の雰囲気に影響され、更には先行作品、同時代の他の作家の作品に影響されながら書かれている。
 漱石や鴎外の小説があって、芥川の小説が誕生した。「発達」が作家個人の歴史だとすれば、「進化」は、そうした文学史的な視点によるアプローチだ。

「機能」というのは、ある小説が、作者と読者との間で持つ意味である。

小説の選択の際の導きとは違い、読中、読後に「機能」について考えることは、基本的には、自分なりの受け止め方次第である。「この小説は、読者に対してどんな意味を持っているのだろう?」「自分は、この小説と出会ったことで、どう変わっただろう?」「作者は、この小説でどんな考えを深めたのだろう?」——そうした、小説のふるまいを考えてみるのが、「機能」の問題だ。

 小説を読み、ブログや課題などで感想を書く時に、この「四つの質問」すべてを網羅する必要はもちろんない。しかし、これらを知っておくと、取っかかりはずいぶんとスムーズになるし、他の人の感想を読んだ時に、どういう点に着目して議論しているのかがよく分かるようになるだろう。

 そもそもの話、どうして人は、小説を手に取るのだろうか?もちろん、それがどんな話か知りたいからだ。この「知りたい」という欲求ことが、ページを捲らせる言動力であり、先を知りたいとはやる気持ちの根底には、最後まで辿り着いて、全体を知りたいという欲求がある。

 リーダブルで(読みやすくて)かつ、人物造形に深みがある小説というのは、プロット前進型述語の文章と主語充填型述語の文章との配置のバランスが良く、全体としては、両者が兼ね備えられた文章が基調をなしているというような作品だ。

 小説というのは、どんなにその世界の中で完結しているように見えても、必ず背後に、膨大な情報や知識の広がりを持っている。それは、過去の文学作品であったり、過去の文学作品が生まれた土壌であったり、もちろん、現代の日本であったり、作者の個人的な経験であったり。

 映画でも小説でもそうだが、エンターテインメントと分類される作品に特徴的な二つの要素は、「謎解き」と「逃亡」である。

 書いて書いて書き続けた挙げ句に、取れるものがみんな取れてしまって、ただ文章だけが残った文章というのが、小説家の理想ではないだろうか。

 ヴィトンのバッグを持っている人や、胸に「一番」と書かれたTシャツを着ている人が、どういう人なのか、私たちは、いちいち説明されなくても、なんとなく想像がつく。普段は意識していなくても、私たちは、社会の中に無数にちりばめられている、そうした<記号>を認識しながら、効率的に<意味>の処理を行っているのだ。

 つまり、『罪と罰』は、分人主義的に人間が更生していく過程を描いた小説としても読めるのである。

 ドストエフスキーの小説が、後世に多大な影響を及ぼす素晴らしい小説と評価されている理由は、どの作品にも、「アポリア」が含まれている点だろう。アポリアとは、哲学的には、一つの問いに対する答えとして相反する二つの見解が成立する場合を意味するが、一般的にどうしても解決できない難問のことだ。

 小説を読む時、タイトルの意味はもちろん、重要だ。
 タイトルは、作品の内向き、外向きの両方で機能しなければならない。既読の人向け、未読の人向けとも言える。読む人にとってだけ意味があればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、どんな本でも、人類全体で見れば、未読の人の方が圧倒的に多く、しかもそのうちの何パーセントかは、タイトルと評判に惹かれて、やがて既読の人となるのである。

「スロー・リーディング」の極意を究める。

 

 

もっと早くこの本を手に取ることができていたら僕のこれまでの読書体験は今とは全く違ったものになっていたかもしれない。

 

僕が行っていたのはただ闇雲にページの最初から最後まで活字を追ってその本を読んだつもりになっている、そういう読書だった。

 

一人の人間が莫大な時間と労力をかけて書き上げた作品をそのあらすじをなぞっただけで、その作品のすべてを理解したようなつもりになっている、そういう読書だった。

 

ページをめくる手を止めてそこに書かれている一つ一つの言葉の意味を考えたり、そこではそういう表現をした作者の意図を考えたり、その作品が書かれた背景を考えたり……。

 

一冊の本を読んでその内容から何かを考えたり、学んだりして、読み終えた時にそれらが自分の血肉となっている、そういう読書こそが、本当の意味での読書なのだということがこの本を読んでわかった。

 

ひたすらあらすじをなぞるだけの読書をして、読み終えた時に「この本はおもしろかった」、「いや、あまりおもしろくなかった」という、その程度の感想しか残らない読書などいくらしても時間の無駄だ。

 

というか、そのような読書が本当の意味で本を読んだといえるのだろうか?ただ物語のあらすじをなぞっただけでその本を読んだというのはその作品に対してあまりにもリスペクトが無さすぎるのではないだろうか?

 

あらすじをなぞっただけの本の数を誇って「僕はこんなにたくさん本を読んだんだぞ!」と良い気になっていた過去の自分を恥じた。

 

本は焦って読む必要などまったくなかったのだ。一冊の本をゆっくりと時間をかけて、その内容をしっかりと噛み締めながら読んでいけばいいのだ。僕は「スロー:リーダー」になる。

 

●作品データ

・タイトル:「本の読み方 スロー・リーディングの実践」

・著者:平野啓一郎

・発行年:2019年

・発行所:PHP研究所

 

●抜書き

「スロー・リーディング」でも、必要な本は十分に読めるし、少なくとも、生きていく上で使える本が増えることは確かであり、それは思考や会話に着実に反映される。

 

 読書は何よりも楽しみであり、慌てることはないのである。

 

 本の読み方など、いまさら人に教えられるまでもない。——そう誰もが考えるかもしれない。しかし、単に文章を読むということ、本という形式にまとめられた文章を読むということは、決して同じではない。本を読むためには、料理を作ったり、車を運転したりするのと同じで、それなりに技術が必要であり、ちょっとした工夫次第で、読書は何倍も楽しくなる。にもかかわらず、私たちは、それを誰からも教わってこなかった。それで、誰もが自己流のやり方を貫き通している。

 

 本書は、そうした問題意識に立って、そもそも本はどうやって読んだらいいのか、をできるだけ分かりやすく説明することを目的にしている。

 

 私たちは、日々、大量の情報を処理しなければならない現代において、本もまた、「できるだけ速く、たくさん読まなければいけない」という一種の強迫観念にとらわれている。

 

 もちろん、時と場合によっては、速く読むことも必要だろう。「明日までに大量の資料を読んで書類を作らなければいけない」といった状況下では、速読や斜め読みは避けられまい。しかしそれは、単に一時的な情報の処理であり、書かれた内容を十分に理解し、その知識を、自分の財産として身につけるための読書ではない。単に、情報の渦の中に否応なく巻き込まれてしまっているだけで、自分の人生を、今日のこの瞬間までよりも、さらに豊かで、個性的なものにするための読書ではないのである。

 

「スロー・リーディング」とは、差がつく読書術だ。その「差」とは、速さや量ではなく、質である。特別な訓練など何も要らない。ただくつろいで、好きな本を読むときに、ほんの少し気をつけておけば、それだけで、内容の理解がグンと増すようないくつかの秘訣をまとめたのが本書である。

 

 本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面からも人を変え、思慮深さと賢明さとをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。私が伝えたいことは、これに尽きると言っていい。

 闇雲に活字を追うだけの貧しい読書から、味わい、考え、深く感じる豊かな読書へ。

 本書が、その一助となれば幸いである。

 

「スロー・リーディング」とは、一冊の本をできるだけ時間をかけ、ゆっくりと読むことである。鑑賞の手間を惜しまず、その手間にこそ、読書の楽しみを見出す。そうした本の読み方だと、ひとまずは了解してもらいたい。スロー・リーディングをする読者を、私たちは、「スロー・リーダー」と呼ぶことにしよう。

 

 一冊の本を、価値あるものにするかどうかは、読み方次第である。たとえば、海外で見知らぬ土地を訪れることをイメージしてみよう。出張で訪れた町を、空き時間のほんの一、二時間でザッと見て回るのと、一週間滞在して、地図を片手に、丹念に歩いて回るのとでは、同じ場所に行ったといっても、その理解の深さや印象の強さ、得られた知識の量には、大きな違いがあるだろう。旅行は、行ったという事実に意味があるのではない(よくそれを自慢する人もいるだ)。行って、どれくらいその土地の魅力を堪能できたかに意味がある。

 

 読書もまた同じである。ある本を速読して、つまらなかった、という感想を抱くのは、忙しない旅行者と同じかもしれない。じっくり時間をかけて滞在した人が、「えっ、あそこにすごくおいしいレストランがあったのに!行かなかったの?あそこの景色は?えっ、ちゃんと見てないの?」と驚き、不憫に感じるのと同じで、スロー・リーダーが楽しむことのできた本の中の様々な仕掛けや、意味深い一節、絶妙な表現などを、みんな見落としてしまっている可能性がある。速読のあとに残るのは、単に読んだという事実だけだ。スロー・リーディングとは、それゆえ、得をする読書、損をしないための読書と言い換えてもいいかもしれない。

 

 私たちは、情報の恒常的な過剰供給社会の中で、本当に読書を楽しむために、「量」の読書から「質」の読書へ、網羅型の読書から、選択的な読書へと発想を転換してゆかなければならない。

 

 私たちは、人が何冊の本を読んだかという数について知ったところで、何にもならない。それはただ、浅はかな自慢話を聞かされたというだけである。しかし、どんな読み方をしたかという話は、聞く側のためになるのである。

 スロー・リーダーは、人に興味を与える読者なのである。

 

 読書においても、たった一冊の本の、たった一つのフレーズであっても、それをよく噛みしめ、その魅力を十分に味わい尽くした人のほうが、読者として、知的な栄養を多く得ているはずである。

 

 読書の面白さの一つは、読んだ本について、他の人とコミュニケーションが取れるということだ。

 

 現代では、読書は完全にプライヴェートな趣味となったが、しかし、読書という行為は、読み終わった時点で終わりというのではない。ある意味で、読書は、読み終わったときにこそ本当に始まる。ページを捲りながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。——読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。

 

 一冊の本を読むという体験は、誰にとっても同じものではない。独善的にならず、まずは作者の意図を正確に理解し、その上で、自分なりの考えをしっかりと巡らせることができれば、読書はその人だけの個性的な体験となる。

 スロー・リーディングは、個性的な読書のために不可欠な技術である。

 

 読書は、「作者」という名の他者と向かい合うことを通じて、私たちをより開かれた人間にするきっかけを与えてくれる。そのためには、一にも二にも「意識的」に、十分に思考を巡らせながらスロー・リーディングすることが大切である。

 

 そして、その違いとは、結局、プロットだけをともかくも追うという立場の読み方からすれば、ノイズでしかない部分にこそ表れているのである。

 

 私たちは、小説を読むとき、細部を捨てて、主要なプロットに還元する読み方をやめて、むしろ、プロットへの還元から溢れ落ちる部分にこそ、目を凝らすべきである。差異とは常に、何か微妙で、繊細なものである。

 

 しかし、新聞を読むというのは、一種の政治的行為である。私たちの投票行動は、この行為の積み重ねによって決定されているその意味では、新聞もまた、スロー・リーディングの対象であるべきである。

 

 ちなみに、文章がうまくなりたいと思う人は、スロー・リーディングしながら特に好きな作家の助詞や助動詞の使い方に注意することをおすすめする。それでリズムがガラリと変わるし、説得力も何倍にもある。また、メールのような短い文章を書くときにも、助詞や助動詞への配慮は、相手への印象をまったく違ったものにするだろう。

 

 漢字というのは、偏と旁とからあう程度は意味の想像がついてしまうので、そのまま何となく分かったようなつもりで読み進めていくこともできる。しかし、辞書を引いて、意味を明確にすると、とんでもない間違った理解をしていることがよくある。

 知識を深めるためには、面倒臭がらずに、辞書を引く習慣を身につけよう。私は、読書のときだけでなく、人との会話やテレビで耳にしたような単語であっても、知らないものはあとで必ず辞書を引く。そのときに、会話を中断してまで辞書を引くことはないが、気にしておいて、帰宅後にでも確認するクセをつけておくと、無理にボキャブラリーを増やそうとしなくても、自然と身についていくものである。

 

 分からない言葉が出てきたら、煩を厭わず、立ち止まって必ず辞書を引くこと。それが、本を深く理解するための何よりの鍵となる。

 

 本を読む喜びの一つは、他者と出会うことである。自分と異なる意見に耳を傾け、自分の考えをより柔軟にする。そのためには、一方で自由な「誤読」を楽しみつつ、他方で「作者の意図」を考えるという作業を、同時に行わなければならない。

 これは、スロー・リーディングの極意とも言えるだろう。

 

 謎解きというのは、推理小説の中で、作者が敷いたレールに沿ってだけするものではない。良書には、どんなものにでも謎はある。それを解く術は、個々の読者が自分自身で発見しなければならない。

 常に「なぜ?」という疑問を持ちながら読むこと。これは、深みのある読書体験をするための一番の方法である。そして、読者が本を選ぶように、本もまた、読者を選ぶのである。会話の中で、聴く気のない相手に対して、人が「この人に話も仕方がない」とそっぽを向いてしまうように、「なぜ?」という疑問を持たない人には、本は永遠に口を閉ざしてしまうだろう。

 

 分からなくなった箇所をそのままにしておいて、読み進めていっても、内容の理解は半減してしまう。忘れた部分は、「なんだったっけ?」としっかり確認してから、改めて前進すればいいのである。

 

 作者は一体、何を言おうとしているのだろうか?そしてその主張は、どんなところから来ているのだろうか?それを探るのは、常に、奥へ、奥へと言葉の森を分け入っていくイメージである。

 一冊の本をじっくりと時間をかけて読めば、実は、一〇冊分、二〇冊分の本を読んだのと同じ手応えが得られる。これは、比喩でも何でもない。実際に、その本が生まれるには、一〇冊、二〇冊分の本の存在が欠かせなかったからであり、私たちは、スロー・リーディングを通じて、それらの存在へと開かれることとなるのである。

 

 小説家が本を読むのが遅い理由は明らかだ。それは、彼らが考えながら読むからである。重要な一節に出くわす度に、本を置いて考える。ときにはそのまま、読書を中断して、翌日までずっとものを考えていることもある。そんなことを繰り返していて、速読などできるはずがない。

 

 言うまでもなく、この「考える」という行為こそが、読書にとっては最も重要なことである。速読とは、要するにアタマを使わない読書のことだ。「遅読(チドク)」はすなわち「知読(チドク)」だと言えよう。

 

 仮に、ノルマを決めて、一日に三冊読もうと決めたとする。そのためには、とても考える時間など悠長にとってはいられない。「読まなければいけない」という焦りは、読書を貧しくするだけである。

 単に情報処理の速度を上げることが目的なら、読書は無意味だろう。主体的に考える力を伸ばすこと。これこそが、読書の本来の目的である。

 

 スロー・リーディングに最適なのは黙読である。

 

 スロー・リーディングの有効な技術の一つとして、人に話すことを想定して読むというのがある。読後に誰かに説明することを前提に読んでいくと、分からない部分は読み返すようになり、理解する能力も自然に高まっていく。

 

 勉強みたいという悪いイメージもあるかもしれないが、スロー・リーディングをするときにも、気になる箇所に線を引いたり、印をつけたりする習慣をつけておくと、内容の理解が一段と深まる。特に、難しい本を読むときに、この方法は有効だ。

 

 読書、とりわけ小説を読む楽しみは、自分だったらどうするだろう?と考えてみることに尽きる。登場人物に感情移入したとか、共感したとか、いろいろな言葉で人はその感覚を表現している。

「自分が主人公と同じ状況に置かれたら、どうするだろうか?」「自分なら、どんな対処をするだろう?」——そうしたことを考えながら読むことは、そのまま、人生の様々なシチュエーションに対応するためのトレーニングとなる。

 

 書店に行くと、ついたくさんの本を買ってしまい、それが積読(ツンドク)状態になっていると、ページを捲る手も速くなりがちかもしれない。しかし、再三繰り返してきたが、量の読書は、もう終わりにしたい。これからは、自分にとって大切な本を大切に読む読書を心がけよう。そもそも、今の世の中に溢れかえっている膨大な本は、どうがんばっても、一生の間に、その極々一部しか読み切れないのである。

 

 せっかく本を読むのであれば、読んだ本の内容をできるだけ長く覚えておいて、折に触れて味わいたいものだ。記憶に残る読書、印象に残る読書のためには、あえてゆっくり読む、という心がけも重要だろう。

 

 自分にとって本当に大切な本を、五年後、一〇年後、と折に触れて読み返してみる。その印象の変化を通じて、私たちは自分自身の成長のあとを実感するだろう。外観の変化は、写真や動画が保存してくれる。しかし、内面の変化を実感させてくれるのは本である。

 

 同じ映画を何度も見る人はいるが、同じ本を何度も読む人はだんだんと少なくなってきている。しかし、本は「再読」することに価値がある。読む度に、新しい発見をし、新しい自分自身を発見する。そうしたつきあい方ができれば、本は人生のかけがえのない一部となるだろう。

 

 常に「なぜ」と考えてみることは、スロー・リーディングの基本である。

 

 たとえば、登場人物が、会話の中で茶を一杯飲むというたったそれだけの、何でこんな描写が必要なんだというような箇所にも、実は緊張から来る口の渇き、間の必要といった意味が暗示されているかもしれない。とするならば、それに続いて発せられるのは、緊張を以て語られるべき重要な言葉である可能性がある。

 小説の中には、そうしたヒントがふんだんにちりばめられている。その一つ一つをどれだけ見落とさずに拾っていけるかが、より深い読解に到達できるかどうかの分かれ道となるのである。

 

 金銭に限らず、鴎外は、人間の欲望の際限のなさについて、ずっと思考を巡らせている。それに対して、彼は有名な「諦念」という境地を示すが、この辺りに興味を覚えた人は、「妄想」という作品を読むことをおすすめする。ともかくも、いかに「満ち足りるか」、というのは、物欲が我が物顔で社会を席巻している現代においても、重要なテーマである。

 

 一冊の本を骨の髄まで味わい尽くそう。それを可能とするのは、読者自身の創造的な読みなのだ。

 

 人間は生まれてから死ぬまで、ずっと変わり続ける。ものの見方も変われば、考え方も変わる。それは、悪いことではない。同じ本を数年後に読み、そこで自分の感想が変わっていたならば、それだけ自分が変わったということであり、その数年間に意味があったということだ。感想は、一回限りのものでなくてもいい。むしろそれは、生きている限り、何度も更新されるものであるべきだ。

「人生最高の〜」と言い切ってしまうには少々大げさではないだろうか?と思ってしまった。

 

 

読む前から期待値が高かったのがいけなかったのかもしれない。

 

PIVOTでこの本の内容が紹介されていた動画を見て、すぐにアマゾンでポチってしまったのだが、正直、期待外れだった感は否めなかった。

 

この本に書かれている内容は日常生活における「心構え」や「立ち振る舞い」に関することがほとんどでこの本に書かれていることをしたからと言って、タイトルにあるように自分のコンディションが劇的に変わるというわけでは決してない。

 

というか、そういうコンディショニングに関する本ではそもそもなかった。

 

●作品データ

・タイトル:「人生最高のコンディショニング  仕事も人生も好転する55の習慣」

・著者:中西哲生

・発行年:2026年

・発行所:株式会社幻冬社

 

●抜書き

人の最高の武器は習慣である

 

朝起きたら布団をたたむ

 

なぜ大谷翔平はゴミを拾うのか?

 

ときどき上を向いて、目を正しいポジションに入れる

 

空腹で思考のキレを増す

 

体の左右差をなくす

 

スマホを持つ手をときどき替える

 

信号が点滅したら渡らない・駅で走らない

 

「耳ひっぱり」で疲れをリセットする

 

鼻呼吸を心がける

 

舌を上あごにつけた状態にする

 

「舌まわし」で舌を鍛える

 

尻尾を伸ばすイメージで立つ

 

「わずかに膝が曲がった状態」がすごく大事

 

首を横に振って、頭の位置をリセットする

 

胸からが足だと思って歩く

 

かかとから着地する

 

よく噛んで食材の水分を出す

 

二礼二拍手一礼のフラットな気持ち

 

僕には、日々の生活で心がけていることがあります。それは「自分との約束を守る」ことです。

 

今を生きる

 

少年とクスノキ

少年とクスノキ

Amazon

 

子どもに読み聞かせをするために図書館から借りてきた本だったのだが、子どもに読んでいるうちに僕の方が感銘を受けてしまった。残念ながら聞いていた子どもはイマイチピンとはきていなかったようだった。

 

砂漠を歩いているひとりの少年。大事な人たちを戦争や事故、災害、病気などで失ってしまった彼は自分の未来を見るためにクスノキ(未来を見せてくれる女神の化身)に会いに行く。

 

やがてクスノキと出会った彼は女神から自分の未来を見せてもらう。そのとき、少年が見た自分の未来とは……というお話。


●抜書き

「これでわかったでしょう?何年経とうが、どんなに未来へ進もうと、人はいつだって迷い続け、道を探し続けるのです。将来への不安が消え去る日など永遠に来ないのです」


「未来を知ることよりも大事なこと、それは、今がどうかということです」


「あの時に、ああしていればとか、あんなふうにしなければよかったと悔いることに意味はありません。それはすべて終わってしまったことだからです」


「同じように、明日からのことを案じる必要もありません。これからどうなるかとか、どうすべきかとか悩むことに意味などないのです。なぜならまだなにも起きていないからです。大切なのは今です」


「今日、自分が生きていることをありがたいと思い、感謝しなさい。そうすれば昨日までのことなど気にならず、明日からのことも不安ではなくなります」

 

●作品データ

・タイトル:少年とクスノキ

・文:東野圭吾

・絵:よしだるみ

・発行年:2025年

・発行所:株式会社実業之日本社

ビートルズを聴きながら読みたい本。緑の幸せを願わずにはいられない。

 

 

京都の療養所「阿美寮」で直子とレイコとの数日間の生活を終えてワタナベは再び東京での生活に戻る。だが、ワタナベはなかなか元の生活に馴染むことができない。ワタナベは大学で再び緑と会う。そして、脳腫瘍のためお茶の水の大学病院に入院している緑の父親の世話をしながら死を間近に控えた緑の父親と心を通わせるがその数日後、父親は死んでしまう。


永沢に誘われ、その恋人のハツミとワタナベの3人で永沢の外交官試験の合格祝いに食事に出かけるが楽しい食事会にはならず、永沢とハツミはけんか別れしてしまう。永沢と別れ、ハツミと二人っきりになったワタナベはハツミとビリヤードをしてキズキのことを思い出す。


ワタナベは冬休みに再び京都へ。冬の療養所で直子とレイコと過ごす。東京へと戻ったワタナベは学生寮を出て一人暮らしを始める。そこへ直子が死んだという知らせが届く。


直子の死後、療養所を出たレイコは旭川の友人のところに向かう途中、東京でワタナベと会い、二人で直子のお葬式をやり直す。そして緑に対する揺るぎない愛に気付く。


次は村上春樹さんが訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでみることにする。

 

●抜書き

「どこに行くの?」と彼女が僕に訊いた。

「図書館」と僕は言った。

「そんなところ行くのはやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」

「さっき食べたよ」

「いいじゃない。もう一度食べなさいよ」


「世の中が辛いの?」

「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」

「たとえばどんなこと?」

「家のこと、恋人のこと、生理不順のこと——いろいろよね」

「もう一杯飲めば?」

「もちろんよ」


「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」


「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。

「できると思うよ」と僕は言った。

「ちょっと訊きたいんだけど、そういうのが日常生活の中で何か役に立ってる?」

「日常生活の中で何かの役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういう物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」


「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」

「ピース」と僕は言った。

「ピース」と緑は言った。


「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?」

「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラスチックの湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。


僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。


「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言ってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。


「それでね」と言ってから緑はトム・コリンズをすすり、ピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」

「どうして?」

「どうして?」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてって、どういうことよ、それ?」

「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」

「あなたのことが好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっているのよ?いったいどこの誰が好きでもない相手と一緒にいたいと思うのよ?」


「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」


「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」


事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇になれるのを待つしかありません。


「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」

 僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭が悪いせいだと思うけれど、ときどき君が何を言っているのかよく理解できないことがある」

「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのと好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって:

「まあひとつの哲学ではあるな」

「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。


「世界中の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」


季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。


「あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうしないと何もかも駄目になっちゃうわよ」


「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさというものをよく知ってるわね」


「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」

 

 

●作品データ

・タイトル:ノルウェイの森(下)

・著者:村上春樹

・発行年:1987年

・発行所:株式会社講談社