もっと早くこの本を手に取ることができていたら僕のこれまでの読書体験は今とは全く違ったものになっていたかもしれない。
僕が行っていたのはただ闇雲にページの最初から最後まで活字を追ってその本を読んだつもりになっている、そういう読書だった。
一人の人間が莫大な時間と労力をかけて書き上げた作品をそのあらすじをなぞっただけで、その作品のすべてを理解したようなつもりになっている、そういう読書だった。
ページをめくる手を止めてそこに書かれている一つ一つの言葉の意味を考えたり、そこではそういう表現をした作者の意図を考えたり、その作品が書かれた背景を考えたり……。
一冊の本を読んでその内容から何かを考えたり、学んだりして、読み終えた時にそれらが自分の血肉となっている、そういう読書こそが、本当の意味での読書なのだということがこの本を読んでわかった。
ひたすらあらすじをなぞるだけの読書をして、読み終えた時に「この本はおもしろかった」、「いや、あまりおもしろくなかった」という、その程度の感想しか残らない読書などいくらしても時間の無駄だ。
というか、そのような読書が本当の意味で本を読んだといえるのだろうか?ただ物語のあらすじをなぞっただけでその本を読んだというのはその作品に対してあまりにもリスペクトが無さすぎるのではないだろうか?
あらすじをなぞっただけの本の数を誇って「僕はこんなにたくさん本を読んだんだぞ!」と良い気になっていた過去の自分を恥じた。
本は焦って読む必要などまったくなかったのだ。一冊の本をゆっくりと時間をかけて、その内容をしっかりと噛み締めながら読んでいけばいいのだ。僕は「スロー:リーダー」になる。
●作品データ
・タイトル:「本の読み方 スロー・リーディングの実践」
・著者:平野啓一郎
・発行年:2019年
・発行所:PHP研究所
●抜書き
「スロー・リーディング」でも、必要な本は十分に読めるし、少なくとも、生きていく上で使える本が増えることは確かであり、それは思考や会話に着実に反映される。
読書は何よりも楽しみであり、慌てることはないのである。
本の読み方など、いまさら人に教えられるまでもない。——そう誰もが考えるかもしれない。しかし、単に文章を読むということ、本という形式にまとめられた文章を読むということは、決して同じではない。本を読むためには、料理を作ったり、車を運転したりするのと同じで、それなりに技術が必要であり、ちょっとした工夫次第で、読書は何倍も楽しくなる。にもかかわらず、私たちは、それを誰からも教わってこなかった。それで、誰もが自己流のやり方を貫き通している。
本書は、そうした問題意識に立って、そもそも本はどうやって読んだらいいのか、をできるだけ分かりやすく説明することを目的にしている。
私たちは、日々、大量の情報を処理しなければならない現代において、本もまた、「できるだけ速く、たくさん読まなければいけない」という一種の強迫観念にとらわれている。
もちろん、時と場合によっては、速く読むことも必要だろう。「明日までに大量の資料を読んで書類を作らなければいけない」といった状況下では、速読や斜め読みは避けられまい。しかしそれは、単に一時的な情報の処理であり、書かれた内容を十分に理解し、その知識を、自分の財産として身につけるための読書ではない。単に、情報の渦の中に否応なく巻き込まれてしまっているだけで、自分の人生を、今日のこの瞬間までよりも、さらに豊かで、個性的なものにするための読書ではないのである。
「スロー・リーディング」とは、差がつく読書術だ。その「差」とは、速さや量ではなく、質である。特別な訓練など何も要らない。ただくつろいで、好きな本を読むときに、ほんの少し気をつけておけば、それだけで、内容の理解がグンと増すようないくつかの秘訣をまとめたのが本書である。
本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面からも人を変え、思慮深さと賢明さとをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。私が伝えたいことは、これに尽きると言っていい。
闇雲に活字を追うだけの貧しい読書から、味わい、考え、深く感じる豊かな読書へ。
本書が、その一助となれば幸いである。
「スロー・リーディング」とは、一冊の本をできるだけ時間をかけ、ゆっくりと読むことである。鑑賞の手間を惜しまず、その手間にこそ、読書の楽しみを見出す。そうした本の読み方だと、ひとまずは了解してもらいたい。スロー・リーディングをする読者を、私たちは、「スロー・リーダー」と呼ぶことにしよう。
一冊の本を、価値あるものにするかどうかは、読み方次第である。たとえば、海外で見知らぬ土地を訪れることをイメージしてみよう。出張で訪れた町を、空き時間のほんの一、二時間でザッと見て回るのと、一週間滞在して、地図を片手に、丹念に歩いて回るのとでは、同じ場所に行ったといっても、その理解の深さや印象の強さ、得られた知識の量には、大きな違いがあるだろう。旅行は、行ったという事実に意味があるのではない(よくそれを自慢する人もいるだ)。行って、どれくらいその土地の魅力を堪能できたかに意味がある。
読書もまた同じである。ある本を速読して、つまらなかった、という感想を抱くのは、忙しない旅行者と同じかもしれない。じっくり時間をかけて滞在した人が、「えっ、あそこにすごくおいしいレストランがあったのに!行かなかったの?あそこの景色は?えっ、ちゃんと見てないの?」と驚き、不憫に感じるのと同じで、スロー・リーダーが楽しむことのできた本の中の様々な仕掛けや、意味深い一節、絶妙な表現などを、みんな見落としてしまっている可能性がある。速読のあとに残るのは、単に読んだという事実だけだ。スロー・リーディングとは、それゆえ、得をする読書、損をしないための読書と言い換えてもいいかもしれない。
私たちは、情報の恒常的な過剰供給社会の中で、本当に読書を楽しむために、「量」の読書から「質」の読書へ、網羅型の読書から、選択的な読書へと発想を転換してゆかなければならない。
私たちは、人が何冊の本を読んだかという数について知ったところで、何にもならない。それはただ、浅はかな自慢話を聞かされたというだけである。しかし、どんな読み方をしたかという話は、聞く側のためになるのである。
スロー・リーダーは、人に興味を与える読者なのである。
読書においても、たった一冊の本の、たった一つのフレーズであっても、それをよく噛みしめ、その魅力を十分に味わい尽くした人のほうが、読者として、知的な栄養を多く得ているはずである。
読書の面白さの一つは、読んだ本について、他の人とコミュニケーションが取れるということだ。
現代では、読書は完全にプライヴェートな趣味となったが、しかし、読書という行為は、読み終わった時点で終わりというのではない。ある意味で、読書は、読み終わったときにこそ本当に始まる。ページを捲りながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。——読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。
一冊の本を読むという体験は、誰にとっても同じものではない。独善的にならず、まずは作者の意図を正確に理解し、その上で、自分なりの考えをしっかりと巡らせることができれば、読書はその人だけの個性的な体験となる。
スロー・リーディングは、個性的な読書のために不可欠な技術である。
読書は、「作者」という名の他者と向かい合うことを通じて、私たちをより開かれた人間にするきっかけを与えてくれる。そのためには、一にも二にも「意識的」に、十分に思考を巡らせながらスロー・リーディングすることが大切である。
そして、その違いとは、結局、プロットだけをともかくも追うという立場の読み方からすれば、ノイズでしかない部分にこそ表れているのである。
私たちは、小説を読むとき、細部を捨てて、主要なプロットに還元する読み方をやめて、むしろ、プロットへの還元から溢れ落ちる部分にこそ、目を凝らすべきである。差異とは常に、何か微妙で、繊細なものである。
しかし、新聞を読むというのは、一種の政治的行為である。私たちの投票行動は、この行為の積み重ねによって決定されているその意味では、新聞もまた、スロー・リーディングの対象であるべきである。
ちなみに、文章がうまくなりたいと思う人は、スロー・リーディングしながら特に好きな作家の助詞や助動詞の使い方に注意することをおすすめする。それでリズムがガラリと変わるし、説得力も何倍にもある。また、メールのような短い文章を書くときにも、助詞や助動詞への配慮は、相手への印象をまったく違ったものにするだろう。
漢字というのは、偏と旁とからあう程度は意味の想像がついてしまうので、そのまま何となく分かったようなつもりで読み進めていくこともできる。しかし、辞書を引いて、意味を明確にすると、とんでもない間違った理解をしていることがよくある。
知識を深めるためには、面倒臭がらずに、辞書を引く習慣を身につけよう。私は、読書のときだけでなく、人との会話やテレビで耳にしたような単語であっても、知らないものはあとで必ず辞書を引く。そのときに、会話を中断してまで辞書を引くことはないが、気にしておいて、帰宅後にでも確認するクセをつけておくと、無理にボキャブラリーを増やそうとしなくても、自然と身についていくものである。
分からない言葉が出てきたら、煩を厭わず、立ち止まって必ず辞書を引くこと。それが、本を深く理解するための何よりの鍵となる。
本を読む喜びの一つは、他者と出会うことである。自分と異なる意見に耳を傾け、自分の考えをより柔軟にする。そのためには、一方で自由な「誤読」を楽しみつつ、他方で「作者の意図」を考えるという作業を、同時に行わなければならない。
これは、スロー・リーディングの極意とも言えるだろう。
謎解きというのは、推理小説の中で、作者が敷いたレールに沿ってだけするものではない。良書には、どんなものにでも謎はある。それを解く術は、個々の読者が自分自身で発見しなければならない。
常に「なぜ?」という疑問を持ちながら読むこと。これは、深みのある読書体験をするための一番の方法である。そして、読者が本を選ぶように、本もまた、読者を選ぶのである。会話の中で、聴く気のない相手に対して、人が「この人に話も仕方がない」とそっぽを向いてしまうように、「なぜ?」という疑問を持たない人には、本は永遠に口を閉ざしてしまうだろう。
分からなくなった箇所をそのままにしておいて、読み進めていっても、内容の理解は半減してしまう。忘れた部分は、「なんだったっけ?」としっかり確認してから、改めて前進すればいいのである。
作者は一体、何を言おうとしているのだろうか?そしてその主張は、どんなところから来ているのだろうか?それを探るのは、常に、奥へ、奥へと言葉の森を分け入っていくイメージである。
一冊の本をじっくりと時間をかけて読めば、実は、一〇冊分、二〇冊分の本を読んだのと同じ手応えが得られる。これは、比喩でも何でもない。実際に、その本が生まれるには、一〇冊、二〇冊分の本の存在が欠かせなかったからであり、私たちは、スロー・リーディングを通じて、それらの存在へと開かれることとなるのである。
小説家が本を読むのが遅い理由は明らかだ。それは、彼らが考えながら読むからである。重要な一節に出くわす度に、本を置いて考える。ときにはそのまま、読書を中断して、翌日までずっとものを考えていることもある。そんなことを繰り返していて、速読などできるはずがない。
言うまでもなく、この「考える」という行為こそが、読書にとっては最も重要なことである。速読とは、要するにアタマを使わない読書のことだ。「遅読(チドク)」はすなわち「知読(チドク)」だと言えよう。
仮に、ノルマを決めて、一日に三冊読もうと決めたとする。そのためには、とても考える時間など悠長にとってはいられない。「読まなければいけない」という焦りは、読書を貧しくするだけである。
単に情報処理の速度を上げることが目的なら、読書は無意味だろう。主体的に考える力を伸ばすこと。これこそが、読書の本来の目的である。
スロー・リーディングに最適なのは黙読である。
スロー・リーディングの有効な技術の一つとして、人に話すことを想定して読むというのがある。読後に誰かに説明することを前提に読んでいくと、分からない部分は読み返すようになり、理解する能力も自然に高まっていく。
勉強みたいという悪いイメージもあるかもしれないが、スロー・リーディングをするときにも、気になる箇所に線を引いたり、印をつけたりする習慣をつけておくと、内容の理解が一段と深まる。特に、難しい本を読むときに、この方法は有効だ。
読書、とりわけ小説を読む楽しみは、自分だったらどうするだろう?と考えてみることに尽きる。登場人物に感情移入したとか、共感したとか、いろいろな言葉で人はその感覚を表現している。
「自分が主人公と同じ状況に置かれたら、どうするだろうか?」「自分なら、どんな対処をするだろう?」——そうしたことを考えながら読むことは、そのまま、人生の様々なシチュエーションに対応するためのトレーニングとなる。
書店に行くと、ついたくさんの本を買ってしまい、それが積読(ツンドク)状態になっていると、ページを捲る手も速くなりがちかもしれない。しかし、再三繰り返してきたが、量の読書は、もう終わりにしたい。これからは、自分にとって大切な本を大切に読む読書を心がけよう。そもそも、今の世の中に溢れかえっている膨大な本は、どうがんばっても、一生の間に、その極々一部しか読み切れないのである。
せっかく本を読むのであれば、読んだ本の内容をできるだけ長く覚えておいて、折に触れて味わいたいものだ。記憶に残る読書、印象に残る読書のためには、あえてゆっくり読む、という心がけも重要だろう。
自分にとって本当に大切な本を、五年後、一〇年後、と折に触れて読み返してみる。その印象の変化を通じて、私たちは自分自身の成長のあとを実感するだろう。外観の変化は、写真や動画が保存してくれる。しかし、内面の変化を実感させてくれるのは本である。
同じ映画を何度も見る人はいるが、同じ本を何度も読む人はだんだんと少なくなってきている。しかし、本は「再読」することに価値がある。読む度に、新しい発見をし、新しい自分自身を発見する。そうしたつきあい方ができれば、本は人生のかけがえのない一部となるだろう。
常に「なぜ」と考えてみることは、スロー・リーディングの基本である。
たとえば、登場人物が、会話の中で茶を一杯飲むというたったそれだけの、何でこんな描写が必要なんだというような箇所にも、実は緊張から来る口の渇き、間の必要といった意味が暗示されているかもしれない。とするならば、それに続いて発せられるのは、緊張を以て語られるべき重要な言葉である可能性がある。
小説の中には、そうしたヒントがふんだんにちりばめられている。その一つ一つをどれだけ見落とさずに拾っていけるかが、より深い読解に到達できるかどうかの分かれ道となるのである。
金銭に限らず、鴎外は、人間の欲望の際限のなさについて、ずっと思考を巡らせている。それに対して、彼は有名な「諦念」という境地を示すが、この辺りに興味を覚えた人は、「妄想」という作品を読むことをおすすめする。ともかくも、いかに「満ち足りるか」、というのは、物欲が我が物顔で社会を席巻している現代においても、重要なテーマである。
一冊の本を骨の髄まで味わい尽くそう。それを可能とするのは、読者自身の創造的な読みなのだ。
人間は生まれてから死ぬまで、ずっと変わり続ける。ものの見方も変われば、考え方も変わる。それは、悪いことではない。同じ本を数年後に読み、そこで自分の感想が変わっていたならば、それだけ自分が変わったということであり、その数年間に意味があったということだ。感想は、一回限りのものでなくてもいい。むしろそれは、生きている限り、何度も更新されるものであるべきだ。




